あいのうた

「お、鳳、すげえなおまえ、その紙袋、何」
外部進学で氷帝の大学部に入ってきた友人が、俺の足元にあったふたつのショップバッグをひょいと覗いた。
「……げー、なんだこれ、ピエール・マルコリーニに……エルメ? エヴァン……。あ、ゴディバは分かるわ。って、これ全部チョコかよ! しかもみんなすげえ高いんじゃねえの?」
「習慣みたいなものでさ。持ち上がり組が多いから。季節の贈り物っていうか……。でもみんな義理だしね」
「義理でこれかよ。は〜、なんかやっぱ生粋の氷帝っ子はブルジョワなんだなあ。俺が今までもらった義理チョコなんか、パラソルかチロルだぜ」
「こんなの鳳だけだって。俺だって板チョコがいいとこだ」
と持ち上がり組のもうひとりの友人が肩を竦めながら笑って、ふざけ半分に袋を蹴った。
結局はただの邪魔な荷物にしかならない小さな箱の山に内心うんざりしながらも、よせよ、とそんな友人を窘める。
「わりい。ま、あれだよな、みんながみんな義理ってわけでもないだろうしな。チョコ以外もあんだろ? プレゼント。鳳は今日誕生日なんだしさ」
「うええ、なんか、おまえって……」
眉間に皺を刻み顎をひいて、呆れたというか、参ったというか、まるでまずいものを食べたというような顔を友人は見せた。

あのとき、彼もこんな顔をした。
バレンタインデーが俺の誕生日だと知った時、あの人もこんな顔をしたのだ。

本当に好きな人と自分の誕生日を過ごしたのは、たった一度だけだ。
しかもそれはただのなりゆきでそうなっただけで、過ごしたといえるほどのことでもない。
ほんの1時間かそこら、閉じられた空間で時間を共有しただけのことだ。
第一、俺もあの人も意図したわけじゃなかった。
あのとき俺は自分の気持ちに気づいていなかったし、彼に至ってはそんな気持ちがあったはずもない。

あれは中学1年の冬だった。


秋の新人戦間際に樺地と一緒に準レギュラーに昇格した俺は、サーブの威力を買われて、時折正レギュラーの先輩たちとの練習にも混ぜてもらうようになっていた。
正規の練習メニューでも正・準合同の日は設けられていたけれど、それとは別に個人の裁量で行われる練習のときでも声をかけられることがたまにあって、なかでも2年の宍戸さんはその頻度が高かった。

「……そろそろやめっか。いい加減、手がかじかんできた」
「あ、はい」
丸めた手のひらを息で暖めながら、宍戸さんが声をかけてくる。俺は足元に散らばっていたボールを籠に放り込み、ネットを外すためにネットポストに走り寄った。
今日のネットは誰が張ったのかワイヤーが妙にギチギチに巻かれていて、俺は少し手こずり、力任せにハンドルを回した反動で、右の指先に微かに痛みが走った。
「……って」
「どうした、長太郎」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そうか?」
俺はいぶかしげな宍戸さんの視線を誤魔化すように拳を握りこむと作業を続けた。
まだ指先には鈍い痛みが残っていた。


正レギュラーと準レギュラーでは部室が違うので、俺と宍戸さんは居残り練習をした時にはお互いが身支度を整えてからクラブハウス前の噴水で落ち合い、駅までの道程を一緒に帰るのが習慣になっていた。
今日もそうで、俺は準レギュラーの部室の前で宍戸さんと別れ、着替えようと自分のロッカーを開けた途端に目に入ったものにちょっとうんざりした。
練習に夢中になっていてすっかり忘れていた。
ロッカーの中には、今日一日で俺が貰ったバレンタインデーのチョコとプレゼントの山が押し込まれていた。
去年あたりから兆候はあったけど、中等部に上がるや周囲の女子は急に大人びて、なんというか、言葉は悪いけど、つまりは色気づいてしまったのだ。
恋をしていないといけないとでも思っているのか、教室で洩れ聴こえてくる話題の中心はそういうもので、なんだか女の子たちのまわりにはピンク色の空気がふわふわしているような感じだった。
誰が好き、とか、どの先輩がかっこいい、とかキャアキャア騒いでいるのは可愛らしくてほほえましくもあったけど、でもまさかその矛先が自分にも向いていたなんて、今日の今日まで思いもよらなかった。
朝、登校して、女の子たちにプレゼントを差し出されたときには、跡部部長とかテニス部の先輩への頼まれものかなあなんて思っていたのに、違ったのだ。ほとんどみんなちゃんと俺宛てで(跡部先輩宛てのものは樺地のほうにいっていた。みんなよくわかっている)、しかも今日が俺の誕生日だということもきっちりと知られていて、貰うのも気が引けるような立派なプレゼントを上級生の先輩から渡されたりもした。
義理だからね、と念押しをしながら頬を赤らめていた子もいたし、校舎裏に呼び出されて告白、というものもいくつかされてしまった。
真っ赤になって頭を下げている女の子を、かわいいなあとも思ったけど、つきあうとかそういうことは全然ピンとこなかった。
俺はまだ、誰かに対して愛しいとか恋しいとかそういう気持ちを抱いたことはなくて、テニスとかピアノとか、夢中になっていることとやらなきゃいけないことで頭がいっぱいで、だから全部ごめんなさいとお断りをした。
しかも部活前に呼び出されたときに至っては、俺の頭の中を占めていたのは「早くコートにいかないと、宍戸さんに文句を言われる」ってことだったのだ。
「……あー、受け取らなきゃよかったのかなあ」
でも最初のひとつを受け取ってしまったら、あとのものも断ることはできず、増えていく箱の山に途方に暮れていた俺に樺地がそっと大きなショップバッグを渡してくれた。跡部先輩用の紙袋の余りだったらしい。
すっかり気分がローになった俺は、ただでさえトロいと宍戸さんに言われているのに、更に帰り支度に時間がかかる羽目になってしまった。


案の定、着替えの早い宍戸さんは、いつもの通り噴水の縁に腰掛けて俺を待ってくれていた。
外はすっかり暗くなって、練習を終えたときよりもずっと寒さも増している。
ほのかにライトアップされた噴水から零れ落ちる雫が宝石を散らしたように闇に映えて、綺麗なんだけれど、余計に空気を冷たくしている気がした。
宍戸さんは薄着をしているわりには寒さが苦手で、ポケットに手を突っ込んで背中を丸めて身を竦ませながら、いつもちゃんと俺のことを待っていてくれるのだ。
申し訳ない気持ちになって、遅くなってすいません、と頭を下げると、宍戸さんは俺の提げている紙袋をしげしげと眺めた。
「なんだおまえ、荷物多いな。……その袋、跡部の。あー、バレンタインか。へー」
最後の「へー」はほとんど棒読みのわざとらしい言い方で、その半眼になった目つきはちょっと憎たらしい感じだった。
「えっと、でも義理チョコですよ。それにあの、俺、今日誕生日なんで」
誕生日なんで、と俺が言ったときの宍戸さんの顔は、さっきの憎たらしい顔以上にひどい表情だった。どんなまずいものがその喉を通ったのか、というような顔だった。
「うえー」と洩らした声もあんまりだと思った。
「……ひどいですよ、宍戸さん、なんですか、その顔」
「だってさバレンタインが誕生日って、おまえ。それジローのこどもの日並みにハマりすぎだろ」
「ジロー先輩って誕生日こどもの日なんですか」
「笑ってんじゃねえよ。バカにしてんだろ、ジローに言うぞ」
「あ、やめてくださいよ、ジロー先輩、あんなだけど、なにげに怖いんですから」
「あんな、とか言ってっし。おまえもなにげに生意気だよ」
「すいません」
肩を竦めて頭を下げた俺に、ふ、と宍戸さんは目元を綻ばせ、機嫌のいいときに見せる笑顔をしてくれたので俺はホッとして、つられたように頬が緩む。
それから、少し考え込むようにした宍戸さんは、ジャケットのポケットをまさぐった。
「あ、あった。じゃあさ、長太郎、誕生日プレゼントにカラオケおごってやる」
「え」
宍戸さんはくしゃくしゃになった横長の小さな紙を両手のひらで挟んでちょっと皺を伸ばしてから、ヒラヒラと俺の目の前で振った。
駅前のカラオケの割引券のようだった。
本当をいえばカラオケは好きじゃなかった。あの密室空間で氾濫する音は、俺の耳にははっきりいって耐え難いものがあるのだ。
何度か同級生たちと行ったことがあるが、たいがいお開きになる頃にはひどい頭痛に苛まれている。歌いやすいようにとみんながキーを高くしたり低くしたりするたびに、言いようの無い気持ち悪さが俺を襲う。
でも名案を思いついたといったふうな宍戸さんの顔を見ていたら、とても断る気にはなれなかった。
俺の誕生日を祝ってやろうだなんて、少しでもこの人がそんなふうに思ってくれたことに、なんだかくすぐったい気持ちにもなった。
「あー、でも家で家族の人とかが待ってんだったら」
「いえ、大丈夫です。どうせ姉さんとか、もう弟より彼氏っスから。嬉しいです。ありがとうございます」
そっか、と宍戸さんはまた笑って、じゃあ行くか、と俺達は連れ立って歩き出した。
身を切るような冷たい風が吹いているのに、俺は宍戸さんの隣を歩いているだけで、なにか温かいものに包まれている気がして、少しも寒いと思わなかった。
口が悪くて、偉そうで、その態度もだけど、伸ばしている髪のせいで上の先輩たちとの軋轢も少なくない宍戸さんは、どちらかといえば近寄るのを躊躇してしまう人だった。
でも俺は宍戸さんの長い黒髪は好きだった。
苦手だけど、たたずまいが綺麗なひとだなとは思っていた。
そして俺が準レギュラーに上がって、宍戸さんから練習に誘われるようになって少しずつ親しくなるごとに、俺の宍戸さんに抱いていた印象はどんどん変わっていった。
宍戸さんの悪い噂とかイメージとかは、平部員の先輩たちから流れてくるものがほとんどだった。それは、跡部先輩を筆頭に、ある意味個性の強すぎる他の正レギュラーの先輩達に比べて、宍戸さんには体格的にも技術的にも絶対的な力の差を感じさせる部分が薄かったから、余計に妬みや嫉みの対象になりやすかったせいだったのだ。
だけど宍戸さんは誰よりも貪欲だったし、誰よりもテニスが好きな人だった。
近くで接するようになるとそれがわかるから、だからもう引退した正レギュラーだった三年の先輩達からは、宍戸さんは結構可愛がられていたりしたのだ。


カラオケ店で指定された部屋に入ると、宍戸さんは曲選びより先に俺にフードメニューを差し出した。
「ここ、チェーンのわりにはメシうまいんだぜ。おまえの舌には合わねえかもしれねえけど」
「俺、そんな大層な舌もってませんよ」
「どうだかなー。跡部のヤローはひとくちごとに文句垂れやがったぜ。そのくせ全部食いやがったけど」
「……跡部部長、カラオケなんかするんですか」
「厭味ったらしく洋モノばっか歌うから、俺はもう二度とゴメンだって思ったけどな」
いったいどんな経緯で跡部部長が宍戸さんとカラオケに来ることになったんだろう。
こんなふうにふたりきりだったんだろうか。それとも他の先輩たちもいたんだろうか。
だけどなにがそんなに気になるっていうんだろう。別におかしいことなんか何も無い。
何も無いはずなのに、胸の奥が妙にざわついて、けれど突っ込んで聞くことなんてできるはずもなく、俺はメニューを大人しく眺めた。
個室は狭くて、そういえば宍戸さんとこんなふうに閉じられた空間でふたりきりになるのは初めてだ、と急にひどい緊張が俺を襲った。
宍戸さんとふたりになる機会は多かったけど、それはいつもコートとか、駅までの帰り道とか、外ばかりで。
隣に座る宍戸さんから、微かに制汗スプレーの香りがした。もしかしたら、いつも噛んでるミントガムの匂いなのかもしれない。
ちらりと盗み見るように見た横顔は、下唇を少し突き出して、机の上に広げたメニューを真剣に吟味している。
なんだかすごく子どもっぽく見える。
肩にこぼれている束ねた黒髪は、一本一本が思いのほか細い。
触ってみたい。
ふいに突き上げてくるように湧き起こった衝動を俺は抑えられず、思わず宍戸さんのほうに伸ばしかけた指先を、あろうことか宍戸さんはいきなり掴むと、ぐいと自分のほうに引き寄せた。
「し、宍戸さん!?」
「長太郎、おまえ」
「え、」
「指、怪我してんじゃねえの。……あ、さっき、ネットやってたときか」
眉を寄せた険しい表情で、宍戸さんは俺の右手をじっと見つめる。
今の今まで忘れていたくらいの些細な傷だ。ほんの少し血が滲んでいるけど、もう痛みは無い。
痛みは無いのに、掴まれた指先に疼くような痺れが走る。
その痺れが、どんどん俺の身体の奥にまで伝わってくるようで、俺は小さく唾を飲み込んだ。
暖房が効きすぎているんだろうか。なんだか熱い。
「人のことうるさく言うんだから、てめえもちゃんとしろよ。ただでさえノーコンなのに、指先の感覚ひとつで調子が崩れることだってあんだからな」
尖った声音で宍戸さんはそう言って、自分の鞄の内ポケットから絆創膏を取り出した。
それから、まだ使っていなかったお絞りの封を切って、俺の指先の患部を軽く拭い、慣れた手つきで絆創膏を巻いてくれた。
宍戸さんの手が、離れていく。
俺の身体には、仄かな熱と、痺れと、うるさいくらいに脈打つ鼓動が残された。
「あ、りがとうございます」
少し上擦った声の調子に、宍戸さんが気づくはずもない。
「おう。で、何食う?」
もう何を食べても味なんかしないような気がして、俺は適当に目についたものをオーダーした。
その後のことは、実はもうほとんど記憶があやふやだった。
宍戸さんが何を歌ったのかも。俺が、何かを歌ったのかも。
それでもただ一曲だけ、終了五分前のコールの後で、宍戸さんが最後の締めだ、と歌ってくれたハッピーバースデーだけは、今も覚えている。

『Happy Birthday dear 長太郎』
いたずらっ子のような笑顔を見せて、宍戸さんは歌ってくれた。

たった一度だけ、俺が一番大好きな人と、大好きな人だと気がつかないままに過ごした俺の13歳の誕生日だった。


(2008/02/14)
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